title 鳴尾の歴史

万葉集に「なるを」の名が記録されて以来、万治2年(1659年)の武庫川氾濫により鳴尾の全社寺村落とも流失埋没の憂き目にあい、その復興には数拾年要したとのことです。また、鳴尾地域の地名に、開拓を意味する池開、武庫開、西開など「開」、海岸を連想させる砂子、外浜、入江、渡り瀬などに先祖の努力が感じられます。江戸時代には幕府直轄領として、わた、スイカ、あまいも、米などの農業と瀬戸内の回遊魚中心の漁業で栄え、明治以降は「鳴尾苺」や「鳴尾イリジャコ」が有名でした。現在の鳴尾支所付近は昔から大道筋、中筋など商業地域として発展し、鳴尾村公設市場もその名残でした。明治6年村立鳴尾小学校が創立。阪神電鉄開通(明治38年)後は鳴尾競馬場に通う東競馬通り、西競馬通りは阪神間の競馬ファンを熱狂させ、一区間5銭の運賃にもかかわらず大変賑わったそうです。昭和2〜6年第1耕地整理区域で大体の道路網が完成し、鳴尾小学校は現在地に移転し、その跡地に鳴尾会館を建て昭和21年には鳴尾村役場となりました。終戦後、鳴尾校区は、文教と商業の中心地域として復興し、昭和25年に阪神パークが再開、昭和38年に国道43号線・臨港線開通、その後武庫川ランプ開通と町のようすはすっかり変わりました。今は僅かに、地名や碑に歴史の変遷のなごりをとどめています。
 現在のいわゆる鳴尾西校区は、武庫川町、池開町、鳴尾町一丁目〜五丁目、親和会、番町会、八番町の10自治会で構成され、約4,800世帯、約10,600人在住しています。約9.8㎢の限られた地には中心に鳴尾支所があり、公共施設として鳴尾公民館、鳴尾図書館、なるお会館。また教育施設として学校が5校、幼稚園が4ヵ所、保育所2ヵ所福祉施設関係では砂子療育園など5施設あるという文化的、福祉的な地域として、日々充実し発展やまない校区だといえます。近年、全国的な気象異変において、天井川的武庫川の氾濫など、住民としては安泰とばかりはいえませんが、私たちは、明るくてやさしい「ここに住んでよかった」と思えるまちづくりを目指して努力しています。
≪鳴尾・西宮合併50周年記念誌『なるお』≫(平成13年発行) より抜粋



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