六角堂概観

今津小学校六角堂


 今津小学校は、明治6年4月「常源寺」を仮り校舎として創立されました。わんぱく盛りの子どもたちが使い、いたみもひどくなりせまくもなりました。ちょうどその頃、西宮小学校(今の浜脇小学校)が作られました。「西洋作りの浜の学校」と言われたモダンな小学校でした。 今津の人々の心にも「今津にも美しい校舎を」という思いが強くなりました。
 明治15年頃は、酒造りの経済状態は厳しく、工場がつぶれるところもありました。ですから、多くの寄付をお願いすることは出来ませんでした。それでも、学校がせまくなったという理由で「今津小学校独立校舎新築の議」が決められました。
 新築の費用は、8千円でした。当時の今津・津門村の1年間の予算と同じ金額でした。
この新しい校舎は今津の人々の誇りであり、当時としては大変めずらしいので、遠くの人々が弁当持ちで見物に来たそうです。
 美しい六角堂校舎に憧れてか、入学者は急に増えました。
 
 しかし、この六角堂も現在の場所に落ち着くまでには色々なことがありました。
 第2次世界大戦中の昭和20年8月5日の夜、今津地域だけで約300人の死者を出した大規模な空襲がありました。今津小学校のすぐ東から甲子園球場まで焼け野原になりました。職員室の屋根を突き抜け校長先生の机に爆弾が落ちていました。それでも、今津小学校と六角堂は焼けずに残りました。
 そして、昭和20年8月16日に戦争は終わりました。
 六角堂の初めての引っ越しがありました。昭和30年12月27日に移築された六角堂で公民館が開館しました。正門にあった六角堂を西側に移動しました。市内で2番目にできた公民館です。
 昭和39年に、六角堂が取り壊されることがほぼ決定しました。
 このことを聞いた今津を、六角堂を愛する人々が集まって「六角堂は保存すべきだ」という運動を始めました。今津の人々の気持ちが市議会を動かし案は取り下げられました。六角堂は小学校の北側に移築して「幼稚園の園舎」として使われることになりました。昭和40年のことです。そして、この年に当時の県知事が正式に「六角堂」と命名しました。

 平成7年には阪神淡路大震災の被害にもあいました。でも、かわらが落ち、窓ガラスが割れただけで倒壊には至りませんでした。
 さらに、平成10年、最初に建てられた場所に近い現在の場所に移築されました。同年兵庫県など主催の「さわやか街づくり賞」(建築部門)を受賞しました。
 今津地域の人々の願いから生まれた六角堂は、長い時代の色々な出来事を見守りながら120年間今津の地にあります。また、今津の人々も六角堂を愛し守り続けています。

六角堂内部紹介



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