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歴史には記録に残る歴史もあれば、記録に残らない歴史もある。当時体験した人や語り部がいなくなった時に消えてしまう歴史もある。ところが、記録に残らない消えてしまう歴史に、以外とおもしろい話があるものだ。私が聞いたりした、そんな話を集めてみた。 |
| 前校長 富永 邦彦 |
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昭和15年1月1日に、[校旗を新調する]という記録がある。普通「新調する」というのは、古い物があって新しく作ることを「新調」というのだが、どうもそうではないらしい。それまでの船坂小学校には「校章」というものがなかったようだ。 【そのため「紋なし学校、紋なし学校」と、からかわれた。そして、校章のデザインを児童から募集して、現在の校章が決まった(永田 弘さん、故・亥角政雄さんの談話より)】 |
| だから、正式の校章のデザインの元になる原画というものがない。デザインにどのような気持ちが込められたのかは分からない。体育館の壁の銅版を見ても、菱形の形も違うし、中の「船」の字体も違う、とにかく似たようなデザインのものが何種類かある。そんな中で校旗のデザインが一番正しいものではないかと思っている。 | |
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船坂小学校を見学に来る市内の小学校3年生の児童が「あの人、だれ?」と尋ねる。 「二宮尊徳像がある学校なんて、珍しいな」と言いながら先生が説明している。昔なら、どこの学校にもあった二宮尊徳像だ。さて、この二宮尊徳像だが、銅で造られて昭和15年2月に除幕式が行われている。ところが、戦争が激しくなり、金属の不足とともに金属の搬出が始まると、銅製であった二宮尊徳像も昭和17年10月に搬出されている。 |
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その記述が[二宮尊徳像応召(銅製のため)]とあるのも、おもしろい。「応召」とは「天皇陛下に召し出されて軍隊に入る」という意味なのだ。同時期の記録の中に「金属回収令により甲子園球場の鉄傘が回収された」と鉄傘は回収であり、「二宮尊徳像応召」のおもしろさが分かるというものだ。 そして、昭和20年3月の記録に[二宮尊徳石像建設]とあり、それ以後何の記録もないから、今の二宮尊徳像は当時のものと考えてよいのではないか。しかし、今は足に鉄の輪やつっかえ棒がしてあるが、阪神淡路大震災の被害ではない。[岸教頭先生(当時)に確認ずみ]。そうすると、いつごろの、どんな理由によるものかに興味が沸く。昭和20年に建設された時は、その頃の写真から今のランチルームの建物の東南の位置にあったようだから、現在の場所に移転する時に破損したのではないかと想像したりするが、本当のところは分からない。ご存知の方がおられたら、教えていただけるとありがたい。 |
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「奉安殿」(ほうあんでん)と聞いても説明できる人は少ないだろう。「(昭和)天皇陛下」の御写真(「御真影」(ごしんえい)と言う)を納めておくお堂を「奉安殿」と言い、昔の船坂小学校の写真の中に今の運動場の砂場の辺りにその奉安殿が開墾中の畑と一緒に写っている写真がある。 |
| 学校の火事で御真影を焼いてしまった校長先生が、その責任をとって自殺したいということを本で読んだことがある。それほど、御真影は当時大切なものであった。今はワープロで「ほうあんでん」「ごしんえい」で変換キーを押しても変換しないから、死語になってしまったようだ。昭和4,6年ごろに、体育倉庫に御真影を入れるランドセルのような形をしたものがあったのを記憶しているが、いつの間にかなくなっていた。何であるか知られないまま、捨てられたのだろう。 | |
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| 昭和28年7月の記憶に[船坂小学校に電話が開設される]とある。昭和26年に西宮市立船坂小学校になっているから、小学校に電話が設置されるまでは西宮市教育委員会から小学校への電話は農協から小学校に向かって大声で「電話や〜」と叫び、用務員さんが農協まで走って行って、「だれに電話か」と聞いて戻ってきて、その人が農協へいったそうな。その後、よく電話がかかってくる校長先生や教頭先生には、農協の人が振る旗の色で分かるようにしていたとのこと。 [故・亥角政雄さんの談話より] |
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昭和42年の記録に[プール完成]とある。それは以前は現在の体育館門場所に縦12m、横8mぐらいの水槽がプール代わりであり、縦12mも泳ぐと、「ホーッ」という感心した子どもたちの声が聞こえた。その程度の泳力だった。 [西村 浩先生の談話より] |
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その後、西村 浩先生の指導により、水泳記録会で西宮市で一位になる子どもが出たり、船坂小学校の子どもなら6年生になれば40分間泳ぎつづけるのが当たり前という水泳の黄金時代を築いたこともあったが、スイミングスクールの台頭とともにその時代を終えた。 また、校長先生用の住居(校長官舎)の跡地に現在のプールが建設された。昭和40年頃には独身の男の先生(梶本正典先生)が下宿していた。8時過ぎになると、用務員さんに「先生、勉強が始まるで〜」と声をかけて先生を起こし、それから勉強が始まったそうな。実にのどかな風景である。[故・亥角政雄さんの談話より] |
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大正13年に、今の運動場に校舎が建てられた。それが昭和31年に西側へ移動し、講堂に改築され、体育をしたり、学習発表会や卒業式、入学式が行われた。そして、昭和59年に現在の体育館ができたので、内部が図工室・図書室に改築された。そして、平成10年の給食室改築に伴い、図工室・図書室はランチルーム・図書室に改築された。その改築工事のときに天井裏から大正13年当時の職員の名前が墨で書かれた札が出てきたそうな。また、大事に元の天井裏に返しておいたとのこと。(池田壱和さんの談話より) |
| ランチルームのある建物の外装は大正13年当時のままです。戦争でも焼けずに、もうすぐ80歳を迎えます。ランチルームに改築する工事をした技師さんが3年後にランチルームを訪れて、きれいに使ってくれていることに感激していました。これからも大切に使っていきたいものだ。 | |
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私が聞いたりした話だけを思いつくままに書いてみたが、結構な分量になってしまった。 |
| 前校長 富永 邦彦 |